001 : 遠い昔の話



―――むかーしむかし、あるところに。


らしくないとは思っても、めったに聞けないやさしくて柔らかい声につい聞きほれてしまう。
となりで布団に入っている子供はきらきらと目を輝かせながら、始まる物語に熱心に耳を傾けている。

そんなガラじゃないだろうに、何故か子供には甘い。
そのやさしさの少しでもいいからこちらに向けて欲しいものだ。

ゆっくりとして落ち着いた、低く響く声。

その響きの心地よさからか、物語りも終盤に差し掛かるにつれて子供はうとうとまぶたを重くしているようだった。

もう寝るか、と彼は問う。

子供は最後まで聞く、と眠たげな声で答える。

彼はすこし笑って、続きはまた明日な、と言った。




002 : 夜明けと共に



―――ああ、またやってしまった。


いつの間にか薄明るくなっている空を見て、彼は思う。
夢中で読んでしまっていた本を閉じ、ゆっくりと目頭を押さえた。

折角の休日だというのに体を休めなくては意味が無い。

傍らのテーブルに薄くはない本を置き、もそもそとベッドにもぐりこむ。
夜明けと共に、彼は眠りについた。



003 : 境界線



いくじなし。


そんなことを言わないで欲しい、それは確かに間違いではなくて、何も言い返すことなどできないのだけれど。
君のその口から吐き出されるだけで、それは鋭利な刃物のような切れ味をもってしまう。
同じその口で、もっと違う言葉を紡いでほしい。暖かく包むような言葉を。


いくじなし。


そんなことを言わないで欲しい、言われ続けている心はもうずきずき痛んで、何も考えられなくて眩暈がする。
そう意気地がないのだ、こんな、こんな不確かな境界線すら飛び越せないのだから。
そう意気地がないのだ、君に「自分で飛び越えろ」などとは言えないのだから。


いくじなし。


頼むから泣かないで欲しい。
君がわがままなだけなのに、こっちが悪いように感じてしまうから。
僕がわがままなせいで、君を泣かせているように感じてしまうから。



境界線なんて、本当にあったんだろうか。

飛び越えてしまった今、それは誰にも分からなくなってしまった。



004 : 枕



彼の枕はずっとノーのままで。


ふざけて買ってきたことをすこし後悔した。




005 : 濡れた髪



雨は嫌いだ。
誰もが緩慢に、虚ろに、覇気もなく通り過ぎていく。

そんな中に飛び込めば、自分だって虚ろなものになってしまう。

だから外には出ない。だから雨は嫌いだ。
こうやってずっと、寝転んで、雨が過ぎ去るのを待とう。

だってそんな雨に濡れれば、ふやけて溶けて崩れ落ちてしまう。


ばちゃばちゃと泥濘を走る音と。
がらり、と扉の開く音がした。


勝手に上がりこんできたびしょびしょに濡れた彼ははきはきと機敏にタオルを探し出して。
しっかりとした輪郭のままどっがりとソファに座り込んで。

濡れた髪を拭きながら、煙草を買って来い、と傲慢に言い放った。



006 : 十字傷


何度も、何度も何度も、叩きつける。
意味なんかない。理由も何もない。
近くにあるもの、目に付いたもの、手で触れたものすべてを壁に叩きつける。
部屋の中はすぐに散乱していって、元通りになりそうもない。
けれど止めない。止めない理由はないけれど、止める理由もないからだ。
ぜんぶ、すべて、跳ね返ってきたものももう一度叩きつける。

でも、疲れたので止めた。
ぺたん、と冷たい床に座り込む。
ごろりと寝そべる。
カッターナイフが落ちていた。
寝そべったまま手にとる。
カチカチカチカチ。
チキチキチキチキ。
カチカチカチカチ。
チキチキチキチキ。
カチカチカチカチ。
チキチキチキチキ。
カチカチカチカチ。
チキチキチキチキ。
カッターナイフを持ったまま立ち上がる。

やわらかい壁に大きく、十字を描くように傷をつけた。

なんだか少し、悲しくなった。



007 : 伝染



あははははははははははははははははは。
楽しいだろ?
楽しいって言えよ。
可笑しくて可笑しくてしょうがないだろ?
笑えよ。
あははははははははははははははははは。
笑え。
笑え笑え笑え笑え笑え笑え。
あははははははははははははははははは。

あははははははははははははははははは。


なんで、泣くんだ。
笑えって言ってるのに、何で泣くんだ。


「…泣いてねー、よ」


泣くな。泣くなよ、なくな。
お願いだから。
同じように、笑えよ。


涙が、伝染ってしまう、前に。



008 : パンクロックガール


じゃかじゃかと耳障りな音漏れが電車に響いている。
周囲の人々がどんなに眉間に皺を寄せても、彼女がそれに気づくことはない。

彼女のセカイは、守られている。



009 : 甲子園



ひゅう、と風が吹いて、手の平から砂が舞い飛んでいく。
校庭へとばらばらに落ちていくそれは、まさに、夢が散っていく様だった。

「…いいの、撒いちゃって」
「いいんだ」

いいんだ、ともう一度繰り返す。夏は終わった。もう、次はない。

「…うん」
「な、せんせ。ほんとに、一番あつい、夏だったんだ。…だから、もういいんだ」

「…うん」

少年の静かな涙には気づかないふりをして。
くしゃり、とその短い黒髪を撫でた。



010 : 天国への階段



「せんひゃくろくじゅうななだーん」
「せんひゃくろくじゅうはちだーん」

ちいさな子供の声がする。

「ろくせんごひゃくななじゅうよだーん」
「ろくせんごひゃくななじゅうごだーん」

二人の子供が、僕の両手を握っている。

「いちまんはっせんはちじゅうろくだーん」
「いちまんはっせんはちじゅうななだーん」

僕はゆっくりと階段を踏む。一段一段、しっかりと。

「もうつかれたかな?」
「まだだいじょうぶ?」

まだ大丈夫だよ、と笑顔を作ってやる。

「そっか」
「そっか」

二人の子供もにっこりと笑う。

「いちおくにまんろくせんななひゃくきゅうじゅうさんだーん」
「いちおくにまんろくせんななひゃくきゅうじゅうよんだーん」

僕はゆっくりと、階段を、下る。














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