暗い森を、彷徨いながら。
forest
もう、彼のことを好んで口に出す者はいなくなった。
忘れられた、というのが正しいのだろうか。
御剣は考える。所詮はその程度の事件だったのだろうかと。
自分なら、…と。
…そう考えても詮ないことだった。
なぜなら、あの事件は、結局有耶無耶なまま終わってしまったのだから。
弁護士が、毒を、盛られたなど。
大した問題では、なかった、と?
御剣は考える。もし万が一奇跡的に目覚めるようなことがあっても、
きっと彼はコーヒーをもう二度とは飲まないだろう。
それが何故か、とても悲しいことのような気が、した。
その女性に会ったのは、まったくの偶然だった。
会ったというよりは見かけたというほうが正しい。
薄暗くなった空の下、病院から出てきたその姿を、御剣は見つけてしまった。
わけもなく立ち尽くす御剣には気付かず、彼女はしばらく空を見上げていた。
風が、栗色の長い髪をなびかせる。
彼女は暗い空を見上げたまま、そっと、何かを呟いた。
距離が近かったわけではない。
声が大きかったわけではない。
けれど御剣には確かに聞こえたのだ。
―――かみのぎせんぱい、と。
その瞬間、沸き上がってきた感情に、御剣は恐怖した。
かたかたと指が震えだし、足は鉛のように重くなる。
―――こんなものは、知らない。
―――忘れると、そう決めた。だから、知らない。
コーヒーと煙草のにおいと低く響く落ち着いた声と、
肩に触れるあたたかさとそばにいる心地よさと、
包み込む手の大きさと支える腕の力強さと、
ああ、すべて、すべて、忘れた。忘れた。忘れたはずだ。
もうあの夏も終わり、あれから秋も冬も春も過ぎたのだ。
彼女は彼を想い続けている。御剣は、すべて捨てて、忘れた。
最後に見た眠り続ける彼の顔だけを、記憶に焼き付けたまま。
最後に彼に「会った」のは、事件の少し後、真っ白な病室の中だった。
御剣はなぜかその場所へと足を運んでいた。
規則的な電子音。
不規則な呼吸音。
気紛れに揺れる白いカーテン。
彼は目を閉じたまま指先一つ動かさず、ただ死んだように眠っていた。
「…かみの、ぎ」
声が、微かに漏れた。
無意識に。不自然に。
「…神乃木、」
―――なんだ、その様は。
言葉が続かない。
「神乃木…荘龍」
ただその名前だけを、
「かみのぎ…」
繰り返し。
「…お前も、か」
―――おとうさん。
ちいさな子供の、声がした。
ぱた、ぱた、…と。
涙腺から、液体が漏れだしている。
ベッドに落ちる水滴を、御剣はぼんやりと見つめていた。
―――私は、何を…?
御剣がその意味に気付けないでいるうちに、突然ガラリと病室の扉が開いた。
「―――え、」
「ッ、!」
驚いた顔で廊下に立っていたのは、長い、栗色の髪をした―――
―――綾里、…千尋。
御剣は彼女を認めた瞬間、弾かれたように身を翻した。
「…、失礼」
そう呟いて千尋の横を通ろうとしたとき、
「っあ、ま、待って!」
慌てた声と共に、片腕を引き止められた。
御剣がゆっくりと振り返ると、千尋は淡い色合いのハンカチを差し出していた。
「…お話、しません?」
そう言って、彼女はにっこりと笑いかけた。
不思議な空間だった。
変わらない電子音が響く中で、一人の男を、二人の男女はただ見つめていた。
「―――私は、忘れないわ」
千尋はゆっくりと、まっすぐに神乃木の顔を見つめながら、そう言った。
「このひとのことを忘れない。あの女の罪を、…決して、忘れない」
決意に満ちた表情で。決して曇らない、瞳で。
「…あなたは、強い、人だ」
御剣は俯き、何も、見ようとはしなかった。
「―――私は、忘れる。この男も、あの事件も、すべては整理され、…私は忘れるだろう」
「…そう…」
彼女の顔は見なかったが、返された声は、なぜか、暖かかった。
「…私は忘れないわ。…だから、あなたは、忘れていい」
それは、赦しだった。
「…けれど、もし、…私がいなくなってしまったら」
しかし彼女は―――自らの運命を、予言するかのように。
「思い出して」
御剣の心にかけられた、小さな錠を、外す。
「…このひとを、忘れないでいてあげて」
―――ああ、なんて、眩しい。
御剣はゆっくりと、立ち上がった。
千尋がそちらを見ることはない。
「…失礼する」
そう言って今度こそ、御剣は病室を出た。
振り返ることはなく。
数年後―――綾里千尋はこの世を去り、同時に一人の男が世界から消えた。
御剣に、小さな傷だけを残して。
終
私の中でナルミツとカミミツは別軸です
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